「清里村」は明治8年の町村合併の際、樫山・浅川部落が合併し、人口616人でスタートした“静かな村”というより“寒村”という言葉がピッタリの村でした。当時、現在の清里・念場原(国道141弓線沿い)はまだ無人の広野でした。昭和の初め、関東大震災の後で人口が急増した東京では、水源を確保するためタム建設の必要性に迫られました。そこで候補地として白羽の矢を立てられたのが、奥多摩の小河内村でした。紆余曲折の末、昭和13年、住民がダム建設を認め、小河内村に隣接する丹波山村・小菅村の−部もタム用地になることが決まりました。ダム建設で家を失った農民が現在の清里・念壕慮に移転してきたのが、昭和13年4月17日のことです。
当地に農林省の役人として赴任していた静岡市出身の安池興男氏は、28世帯の人達を開拓団として受け入れます。しかし、丹波山村・小菅村の農民は焼畑鳥業の経験しかなく、開拓は困難を極めました。清里の士は黒くて良い土に見えますが、八ヶ岳山麓は酸性の灰土で作物は育たず、水もほとんどありませんでした。肥料も種子も安池氏の月給から支払う始末。また、自ら借金して子供たちの分教場を造ったことも、農民がその事実を知るのは安池氏が去った後のことでした。
昭和13年、奇しくもアメリカ人宣教師ポール・ラッシュ博士(清里の父)が清泉寮を建設します。立教大学の施設で当時は一般人の立ち入りはできませんでしたが、酪農などが緑で自然と地域との交流が深まりました。戦後、清泉寮は民主主義教育の施設になり、“ポール・ラッシュ祭”は地域の人たちに希望を与えました。昭和22年には清里・東念場に樫山・浅川部落から農家の次男、三男が開拓に入りました。苦労はしましたが家族の支えもあり、入植者19名のほとんどが定着して現在に至っています。
昭和40年代中頃、清泉寮付近の景観や美し森のつつじなどを売り物に観光が始まりました。谷口牧場、小須田牧場などが牧場民宿としてスタートし、マスコミが清里ブームに火をつけます。昭和55年から急増したペンションも一躍ペンションブームを巻き起こし、戦後7,000人台まで落ち込んだ高根町の人口も10,000人弱まで増加しました。
清里高原は旧清里村と開拓で入植した先人の歴史に支えられた、農業と観光が共存する町として今日に至っています。

八ヶ岳清里パスポート
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